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執筆者の写真Keiichi Kobayashi

放射線技術の発見

19世紀も末の1895年11月、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンは当時流行っていた真空放電の実験をやっておりました。真空管の中に電極で陽極と陰極を作り、電気をかけると弱い光の帯が生じます。この光の帯は電子の流れで生じるため、電子を目で見える形で観察できるということで、物理学者たちは皆、真空放電の実験をしたのです。今ではこの実験は日本では中学、高校で教えるほど、基礎的な実験です。


レントゲンは電子の流れ以外に、何らかの電磁波が出るのではないかと考えました。でも、光の帯は弱いので、照明を消して観察しなければなりません。また、光はあちこちに拡散するため、 真空管にダンボールの箱を被せ、穴を開けて、そこからだけ光が出るようにしたのです。 ところが、真っ暗な部屋の中で全然、光が当たらない場所においておいた蛍光塗料がボーッと光ったのです。 なぜ、光が当たっていない場所の蛍光塗料が反応するのだ? ひょっとして真空管から目に見えない電磁波が放出されているのか?

そこで、ダンボールで覆われた真空管と蛍光塗料の間に本をおいてみました。蛍光塗料はまだ、光ります。本を何冊も置くとようやく蛍光塗料は光るのをやめました。どうやら、この目に見えない電磁波は紙を通過するらしい。そこで金属をおいてみると蛍光塗料は光りません。どうやら金属は通さないという事がわかってきました。観察を通して次第に以下の事がわかってきました。


  • 1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する

  • 薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する

  • には遮蔽される

  • 蛍光物質を発光させる

  • 熱作用を示さない


この目に見えない電磁波は何者なのか、謎の光線だ、そう考えたレントゲンはこの光線をXと呼びました。X線の発見です。


この後、レントゲンはこの光線が写真のフィルムを感光するのではないかと思いつき、写真のフィルムの前に色々なものを置いて写真を撮ってみました。すると、色々なものの鮮明な透過映像が映っていたのです。 では人間をとればどうなるのでしょう。 そこでレントゲンは奥さんを呼び、 左手をフィルムの上に置くように指示して、写真を撮ってみました。 すると、結婚指輪と左手の骨が鮮明に映ったのです。  この写真を見た奥さんは”私は 自分の死を見た”

という言葉を残しております。これは、この当時、骨をみるのは人が死んだ後だけだったので、そういう感想を持ったのです。


こうして、 人体の内部、特に骨を見る技術が発見されました。 このニュースはあっという間に世界中に広がりました。

科学の研究は 内容が難しい場合、一般の人々は分からないので、その凄さが分からないという事がままあります。しかし、レントゲンの研究は人体の内部を写真で写すという、誰でも分かる内容だったため、世界中が素直に驚きました。この技術はすぐに医学に応用され、放射線診断学が成立したのです。


レントゲンは1901年、ノーベル賞を受賞しております。レントゲンは科学の発展は広く人類全ての人のものであると考え、自分が開発した技術の特許を取らず、個人の経済的利益を追求せず、ノーベル賞でもらった賞金は全額、自分が研究した大学に寄付しています。


日本にはこの発見直後にドイツ留学中の長岡半太郎が知り、3ヶ月後には東京の旧制第一高等学校教授水野敏之丞が科学誌に発表。レントゲンの研究発表後の日本は、どうしてもX線の照射実験をやりたいと、若い物理学者たちが懸命の努力をしました。主に旧制第一高等学校(現東京大学)と第三高等学校(現京都大学)の若手の研究者たちでした。しかし、当時の日本はようやく欧米の近代科学を受け入れ始めたばかりの状態でした。欧米の科学水準にはとても追いつけないような遅れた水準だったのです。X線の実験をするには、真空管を作れなければなりません。真空を作るポンプがそもそもありません。また、電極に通す蓄電池もありません。感応コイルの技術など、日本が作った事もない様々な技術が必要でした。しかし、なんと1年後には日本はX線の照射実験に成功します。この結果、日本の科学技術の水準は急速に向上していったのです。



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